出会った瞬間、わくわくドキドキが止まらないことって人生の中で何度かありますよね。

冨田勲にとってその瞬間は、大阪万博が開催された1969年に訪れました。

現代音楽に傾倒し、ほぼ独学で作曲、編曲の道を歩みはじめた37歳の冨田勲は、音楽にも絵画のように自由な色付けがしたい。と次第に考えるようになりました。そこで出会ったのが「スイッチト・オン・バッハ」という輸入レコードでした。

このアルバムは、モーグ博士がモーグ・シンセサイザーのみで演奏した世界初の作品で、冨田勲はこれなら音楽に自分の好きな色をつけることができると確信。八方手を尽くしてモーグ博士のコンタクト先を見出し、本人と手紙のやりとりをしアメリカの工場にまで視察に行って、最終的にモーグ・シンセサイザーを1台輸入すると決断しました。

冨田勲の飛躍の瞬間は、モーグ博士に手紙を出した瞬間です。

音楽に自由に色付けしたいという斬新なアイデア。
世界初のレコードとの出会い。

いろいろな要因がありますが、夢や妄想だけでなく、とにかく行動に移した。第一歩を踏んだ。という意味でモーグ博士に手紙を出す。という行為が冨田勲を飛躍させた瞬間だと私は考えます。

モーグ・シンセサイザーの価格は、一戸建ての家が数百万で買える当時、1000万円。しかし取扱説明書もなく、しばらくは使い方がまったくわからない状態でした。それでもほとんどの仕事を断って折りたたみ椅子で仮眠をとりながら作業を続け、最初のデモテープをつくるまで1年4ヶ月シンセサイザーに没頭しました。

説明書なしにのめり込んでいく感覚、よくわかります。
あとから思えば、実はそういうときこそが一番輝いていた時間だったということに気づくものです。

それだけ苦労してつくったデモテープですが、日本のレコード会社には「ジャンル不明で並べる棚がない」と採用してもらえず。窮地に陥りアメリカの「スイッチト・オン・バッハ」を出したRCAレコードを訪問して、なんとかレコード化にこぎつけました。

これがその年、全米レコード販売者協会の1974年最優秀クラシカル・レコードに選ばれる大ヒットになりました。