あるときから、ビデオカメラでの
撮影を、あまりしなくなりました。

というより、撮影という行為に
若干の嫌悪感を
感じるようになったのです。

自分の撮影する行為に対する、
もやもやとした嫌悪感。

 

2つの出来事が、きっかけだと
思います。

 

▼ひとつめは、再結成した
イーグルスのライブを、
横浜アリーナに見に行ったときのこと。

S席なのに、メンバーは豆つぶ状態。
ドン・ヘンリーの顔を
はっきりと映し出してくれたのは、
アリーナ会場に設置された
巨大なLEDビジョン。

オペラグラスよりも、
細かい表情がわかります。

そのLEDビジョンを見ながら、
大音量のライブをスピーカーで聴く。

 

突然、ライブ感が、
私の心から喪失したのです。

 

イーグルスのメンバーと、
同じ時間、同じ場所を共有して、
同じ空気を吸っている。
というリアルな感覚までもが、
突如まったく失われてしまったのです。

 

そしてその喪失感の怨念の矛先は、
スピーカーではなく、
はっきりと巨大LEDビジョンに
向けられました。

 

▼ふたつめは、娘の運動会。

選抜リレーに出場した、
娘の晴れがましい舞台。

コーナーを、
懸命に駆けぬける娘。

次の走者にバトンを渡す緊張感。

そして、無事走り終えた安堵の時間。

 

そのすべてを、ビデオカメラの
画面を通して、見た自分。

 

イーグルスで味わったライブ感の
喪失が、
ここでも突然襲ってきました。

 

私は娘と一緒に、時間と場所と
気持ちを共有できたのだろうか?
単なる記録者でしか、
なかったのではないか?

 

そしてその喪失感の怨念の矛先は、
ビデオカメラの小さな画面と、
撮影し記録する行為そのものに、
向けられることになりました。

ビデオカメラ

もしかしたら、

撮りためたビデオテープには、
その喪失感を埋め合わせる、
なにかが詰まっているのではないでしょうか。

そこに救いを求めている自分。

映画を見て泣けるように、
撮影した動画を見て、
感動を得たい。

つまり、感動の再生ではなく、
喪失感の補填。

だから捨てられない。
なぜなら捨ててしまえば、
二度と補填できないから。

感動の再生なら、一度ライブで
感動しているから、
プラススタートですね。

喪失感の補填の場合、
マイナススタートなんですね。
撮影とは、あとで見るために記録する行為。

 

であれば、「あとで」でなく、
「その場で」リアルを実感できる
プラススタートを選ぼう。

という理屈から、
ビデオカメラは邪魔モノになりました。

 

そして追い打ちをかけるように、

どうしても捨てられないモノがあって困っています!

という状況。

 

ビデオカメラで失ったモノは大きい。