集団の知である黙の知は、つかみどころのない知です。
確かにあるんだけれども、どこにあるか定かではない。
そんな知です。

今年の大相撲名古屋場所、横綱白鵬が新鋭関脇逸ノ城を、本場所の取り組みで寄り切った直後、軽くアッパーの一撃を食らわせました。



同郷モンゴルの新人に対する、白鵬の期待を込めた熱い気持ちが少し出すぎたのでしょう。映像を見ると、「この一番を楽しみにしている大勢のお客さんの前で、簡単に土俵を割るな」という顧客視点にたった指導のようにも見えます。

しかし、この白鵬の行為に対して相撲協会の審判部は「見苦しい」とまゆをひそめ、白鵬の師匠宮城野親方に電話で注意をしました。

さて、この「見苦しい」という感覚はどこからくるものでしょうか?どこかにルールブックがあって、取組後の一挙一動が厳格に定められているのでしょうか?

そんなものはありません。それにもかかわらず、相撲協会関係者は一様に「見苦しい」と感じました。これが黙の知です。どこかに書いてあるわけでもないのに、一線が引かれていてそれを超えると不快に思われるのです。人によって、その一線は微妙に違ってはいますが、おおよそ集団の中の人はおなじような一線の感覚を持っています。

白鵬は、「審判長が見苦しいと言っていた」と報道陣から聴いて、「まあ、気を付けます」と答えています。白鵬にも一線の感覚はありながら、審判部とは微妙に一線が異なっていそうです。

ここでは、この一線の基準が正しいとか正しくないという議論はしません。

ただ審判部の人の中にも、白鵬の中にも、黙の知が存在しています。そして相撲協会という集団にも、ひとつの見えない大きな知が霧のように覆いかぶさっています。

日本相撲協会

黙の知はこのように、集団全体の中にあって、それぞれのヒトの中にもあります。でもはっきりとどこにある。とはいえないものです。

そしてもうお気づきだと思いますが、その見えない知は、相撲協会の中だけにとどまらず、相撲ファンの中にもあります。多くの相撲ファンが、白鵬の行為に驚き、違和感を感じたことでしょう。しかし相撲協会の感じた「見苦しさ」とは少し違っていたかもしれません。

この白鵬の行為を見苦しいと感じる感覚を、「変えてはいけないもの」と考えるかどうかは、議論の余地があります。今や上位陣はすべてモンゴル出身者で占められ、有無をいわさず変わっていかざるを得ない日本の国技、大相撲。

しかし、あくまで競技ではなく国技として大相撲を残していくのなら、「変えてはいけないもの」は「見えないもの」の中にあることは間違いありません。そして実は、競技として発展させていく場合でも、「変えてはいけないもの」は「見えないもの」の中にあるのです。もしも「見えるもの」は変えずに、大事な「見えないもの」をすっかり変えてしまったら、それは見た目には相撲ですが、もはや相撲ではなくなるのです。