京阪特急3000系

出典:京阪電鉄

この特急3000系は、
長らく私のあこがれでした。

 

なぜなら、この特急に乗ることは、
幼い私にはかなわぬ夢だったからです。
特急料金があるわけでもありません。
幼稚園で電車通園していた私は、
一人で電車に乗ることは問題ありません。

でも小学生、中学生、高校生になっても、
この特急に乗る夢がかなうことは絶望的でした。

 

理由は、この特急が頭と尻尾しか
停車しなかったからです。

 

私の住んでいた大阪府枚方市は、
大阪と京都の県境、ちょうど中間地点に
ありました。

京阪特急は、当時、
大阪の淀屋橋が始発で、4駅先の京橋を出ると、
京都の七条までノンストップ。
そしてまた4駅先の三条が終点でした。

中間地点に住んでいた私は、大阪にでるときも、
京都にでるときも、急行に乗るしかなかったのです。

私にしてみれば、この特急は、
私の目の前をつねに通過する、
極めて特別な永遠に乗ることのできない
あこがれそのものだったのです。

 

その特急3000系が、
私の実家の近くのくずは駅で、3月12日に大規模リニューアルした、
KUZUHA MALL(くずはモール)に動態保存されるという。

京阪電車のDNAを体験できるミュージアムゾーンで、
デビュー当時のテレビカーとして復活とのこと。

 

これが何を意味するのか?

 

これは京阪電鉄の長い長い沿線計画グランドデザイン
の集大成なのです。

 

くずはモールは、特急3000系が生まれた年と同じ、
1972年、昭和47年に誕生しました。

くずは(樟葉)という駅は、以前は、
田んぼの真ん中にある殺風景な小さな駅。
1960年代までは京阪本線で最小の利用客数。

私の実家の最寄駅牧野も、隣駅くずはも一帯は、
果てしなく広がる田んぼの中に、ところどころ、
集落がある、日本の田園風景そのものでした。

1971年、京阪は、その集落にあったくずは駅を、
300m大阪寄り、田んぼのど真ん中に移転。
急行を停車させます。そして翌年1972年に、
くずはモールを開業したのです。

京阪は、1960年代後半からくずは一帯に、
大規模なニュータウンを造成していました。
田んぼだらけの広大な平地という地理的な利点を
活かして、新しいベッドタウンを一から
作り始めたのです。

 

そのベットタウンを購入した世代は、
いまでは退職してセカンドライフを謳歌しています。

 

2003年、京阪は大きな勝負に出ます。
それまで決して停まることのなかった京都と大阪の
中間地点、くずはに特急を停車させることを決断しました。

 

京都、大阪間は、淀川を挟んで、阪急電鉄がライバルでした。
比較的スマートな発想の阪急電鉄は、
直線が多く、スピードの出せる設計でした。
それに対して京阪は、京阪電鉄カーブ式会社(株式会社)
と揶揄されるほど、大阪の守口から京都方面は、
カーブばかりでスピードの出しにくい設計でした。
それは、京阪電鉄の路線設計の思想が、
もともと集落と集落をつなぐという発想だったからです。
そのかわり守口から京橋の区間は、当初から複々線の直線で、
そこで最大スピードを出して阪急と対抗していました。

 

そのスピード競争の象徴であった特急を、
京都と大阪の中間で停車させる決断。
これは高度成長期時代のベットタウンとしてのくずはの
役割が、完全に変わったことを意味します。

お金のあるくずはのシニア世代。
そして同じように沿線にいるシニアの足を、
大阪、京都に向かわせるのではなく、
中間地点のくずはに集めようという戦略です。

つくづく、くずは駅を集落から300m移設した
決断が素晴らしいものだったと思います。

 

かつて関西の私鉄沿線に必ずあった遊園地は、
いまでは京阪のひらかたパークのみとなりました。
ひらパーにいさんがいまでも盛り上げています。

テレビカー、ラッシュドア、回転式クーラー送風器を
発明したりと、京阪はつねに改革を行ってきた電鉄会社です。

京阪特急3000系は、その京阪のDNAを象徴する
にふさわしい車両なのです。