障害を抱える人との関わりには、今だに自信を持って接することはできません。戸惑いながら、これで良かったのか?といつも自問自答することになります。

車椅子

北欧を旅した五体不満足の乙武さんが、日本人は明らかに「どう接したらいいかわかりません」と人々の顔にくっきり書いてある。と表現しているのを読んで、恥ずかしながら私にも当てはまる表現だな、と思いました。

ハフィントン・ポスト
北欧で感じた「新しい世界」 乙武洋匡

北欧は「障害者を特別視しない」から心地よかった。と乙武さんは書かれています。私は修行が足りないので、特別に見えるものを特別視しないということはできません。ですから先日、神楽坂で初めて乙武さんとお会いした時も、ドギマギしてしまいました。

障害を抱える人と自然に接しようと意識するほど、自然でなくなるというジレンマ。
しかし昨夜ある体験を通して、小さな光明を見つけました。

その女の子は明らかに「障害」を抱えていました。家の鍵を何処かに落としてしまって家に入れない。時刻は零時過ぎ。ちょっと飲み過ぎたらしく、思考力と体力がかなり低下。おまけに、スマホの電池が切れて、友人の連絡先がわからなくなり、途方に暮れていました。

彼女なりに低下した思考力で、コンビニに行って乾電池式充電器を購入したものの、なぜかうまく充電できません。

そこへたまたま通りかかった私。まずは充電器の使い方を再確認しましたが、確かに動作しません。そこで彼女が買ったコンビニに持って行くと、最初は「返品できません」と的外れな冷たい反応でしたが、事情を説明すると、店の事務所でスマホに少しだけ充電してくれました。おそらく彼の持ち物での個人的な対応です。

これで少し進展。

早速彼女が友人にヘルプの電話。しかし友人は新潟に帰省中でどうすることもできず。近くの別の友達のマンションの住所をスマホで探すも部屋番号がわからない。電話もつながらない。そこで私が一計を案じ、なんとかその友達の部屋番号を探し当ててあげました。

その夜はその友達のマンションに泊めてもらうことになり、ひとまず一件落着。

困っている人を助けるのに、さして躊躇もないですし、できることをするだけです。
彼女はいわゆる障害のある人ではありません。でも明らかに鍵を無くして家に入れないという一時的に障害を抱えている人であったわけです。

そうすると私は、障害を抱えている人をごく自然体で助けたことになります。

目が不自由、車椅子で移動、などの障害を抱える人に対して、特に困っていない時は、私たちも何か特別な対応を望まれているわけではありません。何か困っているとき、周りでできることをする。それがすべてなのでしょう。

どんな人でも「障害」を抱える状態に陥ることがあります。そういう考え方に慣れていけば「どう接したらいいかわかりません」と顔に書いてあるような状態から脱することができるかな。そう思える体験でした。